柳田 国男。 日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論

国男 柳田 国男 柳田

👣 ともあれ、伊波の「民俗学」は柳田や折口をやがて沖縄へと誘い、彼らは驚きをもってそこに「日本」の原郷を等しく見出したのである。 「大いなる正しさ」と訓めるが、果たしてどうであったろうか。

2
常民婚姻史料 (新字新仮名、作品ID:58765)• 日本民俗学の古典とされる『遠野物語』(明治43[1910]年)を著した柳田国男が国民に広く知られるようなったのは意外にも戦後のことだ。 すでに「常民」としての日本人像は柳田の頭の中で揺るがぬ姿となっていた。
国男 柳田 国男 柳田

✇ また近代人のアンニュイのように、余裕の乏しい苦悶でもなかった。

13
ガンコとは固いという意味の方言です。
国男 柳田 国男 柳田

☺ 近年 中道等 ( なかみちひとし )君の発見した『津軽の奥』という一巻には、野辺地の馬門から関所を越えて、 狩場沢 ( かりばさわ )・ 小湊 ( こみなと )と海沿いの往還を、久しぶりに通ったという紀行の次に、浅虫の温泉で正月をしたという日記があって、それが同八年のことであった。 転じて、民族学グループ(会と対立関係にあり、のちに発展した)による、同会に対する蔑称。 1916年(大正5年)1月19日 -• 小川家にはたくさんの本があり、国男は書庫にこもって蔵書を乱読したといいます。

87才でした。
国男 柳田 国男 柳田

🐲 いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。 牧水も椰子の實の歌を二つ作つて居る。 その学問は異人種、異文化との出逢いによって誕生した。

九州南部地方の民風 (新字新仮名、作品ID:56586)• 翌年にはドイツ保護領ミクロネシアに進駐し海軍大佐で退役した実弟・松岡静雄とともに「日蘭(=オランダ領インドネシア)通交調査会」なるものを設立している。
国男 柳田 国男 柳田

✔ それが「フォルクスクンデ」の重要な使命でもあった。 それから、さもあらんかと思わせるのが、「外国に在る人々」を西欧の「民俗・民族」学者とする解釈だ。 文字通り、工作を加えないままの一次資料であるわけだ。

17
しこうして問題は何ゆえに菅江真澄の著作ばかりが、ただひとり百年を隔てて今にその価値を認められるかであるが、それにはもとより学問と文章との、大きな力も 与 ( あず )かっている。
国男 柳田 国男 柳田

😔 堀三千 『父との散歩 - 娘の眼に映じた柳田国男』 、1980年 - 著者の夫は• そうして秀才として名を馳せていくようになった国男は1897年に 東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)に入学。

2
(大正元年) -• とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。
国男 柳田 国男 柳田

✔ これを 瑞穂 ( みずほ )の国に運び入れたのが、すでに大いなる意思の力であった。

19
道を行く男女目すだれというものを掛けて、雪に眼を傷めることを防ぐと書いてある。
国男 柳田 国男 柳田

🐲 私は将来の東北文化の研究に向かってこの人の事業が何ほどの功績を有するかを説くために、例を新年習俗の記述にとったが、もちろんこれと関係のない方面にも、他には求められぬ特別の資料は多いのである。 小農が中農へと規模拡大をするには、農地の購入が必要となるが、その購入資金は産業組合を通じて農民自身が調達すべきであると語る。 その話をできるだけ簡単にするために、ここにはただ雪の中の正月だけを説いてみるのだが、今説こうとしている私の意見は、実ははなはだ小さな経験から出発している。

18
これらは家の神だが、里全体の神もいる。
国男 柳田 国男 柳田

🍀 文学者・島尾敏雄は昭和36(1961)年の「ヤポネシアの根っこ」から同45(1970)年の「ヤポネシアと琉球弧」まで、柳田らに刺激を受けながら南島論を展開する。 神社のこと (新字新仮名、作品ID:56020)• ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。

15
実はもうひとつ同義なものがある。 あんな傾向からはわざと離背しようとするのである。